オーガニック・コットン100% アバンティの東北グランマプロジェクト
生地メーカー「avanti(アバンティ)」が東日本大震災により被害を受けた地域に「日々の仕事」をつくるためのプロジェクト
東北グランマのプロジェクトは、
2011年3月11日、東日本大震災により被害を受けた地域、
特に東北地方の女性たちに
「日々の仕事」をつくるために始めたプロジェクトです。
「東北グランマプロジェクト」をはじめたきっかけ
東北グランマのプロジェクトは、2011年3月11日、東日本大震災により被害を受けた地域、特に東北地方の女性たちに「日々の仕事」をつくるためのプロジェクトです。
スタートは、震災から間もない2011年6月。アバンティの渡邊社長自ら、現地の女性たちと話をし、現地で必要とされていることをくみ取りながら、「手しごと」による製品作りが始まりました。 この手しごとを担う女性たちを「グランマ」と呼んでいます。
初年度はオーガニックコットンの残布を利用したクリスマスオーナメンントを作成、約25,000個を完売しました。 オーナメントの他にも、お守りやコットンベイブ、さまざまな 会社から依頼されるOEM製品も手がけています。
このプロジェクトは、単なる仕事作りではなく、3.11を風化させないこと、未解決の問題を忘れないことにもつながっています。 また、「支援だから」ではなく、製品として魅力を感じてもらえるよう、プロがデザインし、作り手に指導を行っています。作り手側も日々技術を磨き、高いレベルの製品をお届けしています。
生産拠点
宮城県石巻市のグランマお二人にお話を伺いました。
にっこりサンパークの得意なこと
左から、佐藤さん、千葉さん、渡邊社長
お二人とアバンティさんの出会いは、2012年の2月。最初はステンシルの依頼だったそうですが、話をする中で、実は千葉さんが編み物が得意だということが分かりました。
千葉さんは震災前から編み物好きで、かなりの腕前。リーダー的存在として、他のメンバーを引っ張っています。佐藤さんと千葉さんは、震災後、仮設住宅で知り合いました。
佐藤さんにとって編み物の仕事ははじめての経験でした。他のメンバーも、かぎ針くらいはやったことはあるけれど棒針ははじめてといった感じのスタートでしたが、経験を重ね、技術を上げ、今では非常に高い品質の製品を生み出しています。 ソチ五輪のときに選手が身につけたニット帽なども担当されたそうです。
ソチ五輪で使用されたニット帽
アバンティの渡邊社長いわく、千葉さんたちのすごいのは、そのプロ意識だそうです。お金をもらう以上、ただ趣味で作っているのとは違う。その意識が、品質に表れます。
たとえば以前、ある衣料品メーカーからニット帽の製作依頼があった際に、千葉さんは大きさ、模様、使い心地などを考えながら3つ試作を行い、メーカーの依頼したデザインに改良の提案をしたことがあり、最終的にその案が採用されたそうです。
ただ支援というだけでは、一時的には良くても遠からず忘れられてしまう。プロがデザインし、作り方を指導し、目標を定める。作り手もそれに応える意識と技術を持つ。それが、継続的に選ばれる製品につながると、渡邊社長はいいます。
震災で、何が起きたのか
石巻は、宮城県の中でも津波による多くの被害を出した市です。さらに石巻市も、合併したいくつかの旧市町村から成っています。
3.11当時、石巻市は旧石巻市にあたる中心地域の対応だけで精一杯で、周辺地域に対してはなかなか支援が行き届かなかったそうです。
にっこりサンパークチームがある北上町十三浜に関していえば、十三浜はその名の通り13の浜がある地域でしたが、残ったのはひとつの浜だけでした。しかも、庁舎まで津波で流されてしまい、職員の方も多く亡くなりました。千葉さんや佐藤さんは、震災の夜、役場の人間が誰も来ないことを不審に思いながら過ごし、翌朝その状況を知りました。
震災の夜、佐藤さんはトンネルの中で、ブルーシートとたき火で寒さをしのぎながら過ごしたそうです。その夜は大粒の雪が降っていました。自分はまだ雪を防げるところで過ごせたから良かった、佐藤さんはいいます。翌朝、たき火の煤でみんな顔が真っ黒になっていたと、笑って話してくださるタネコさんですが、ご主人もお姑さんも津波で亡くなり、今は一人で暮らしています。今でも亡くなったご家族が夢に現れて、眠れない夜が少なくないそうです。
千葉さんは人的被害はなかったものの、津波で何もかも流されてしまったそうです。けれども、親しい人を亡くした人がたくさんいるのだから、うかつに話もできない。そんな状況が続く中で、震災前から好きだった編み物のことを思い出し、一緒に避難していた2~3人と編み物をはじめ、仮設住宅でタネコさんに出会い、仲間に誘いました。
あたたかさを、感じる
当時の話の中で、お二人が何度も口にしたのが、「ありがたい」という言葉です。
震災後1~2週間は、自由に顔も洗えない、歯も磨けない、もちろんお風呂には入れない、そんな状況が続いたそうです。けれども半月ほど経った頃、地元の山奥に湧水を利用した入浴施設があり、自衛隊の協力で集落ごとに連れていってもらえるようになりました。まだまだ寒さの厳しい東北の3月です。本当にありがたかったとお二人はいいます。
佐藤さんは、震災の直後、新潟県長岡の消防団を見かけて、すぐに駆けつけてくれたのだと、泣くほど嬉しかったといいます。また、これはご存じの方も多いかもしれませんが、台湾からは現金で多額の支援がありました。被災地の小学校に人数分のランドセルや自転車の寄付があったり、お金や物だけでなく、現地入りして復興支援にあたった人も多くいました。
たくさんの支援があり、現代は冷たい社会といわれるけれど、あったかかったと、お二人が口にするのが印象的でした。それまで災害などがあったときに、自分たちはそこまでしていただろうかと、自分を省みたというふうにまでいわれていました。
何かしたい、その気持ちに応えるために
一方で、何かしたくても、津波で流されて、とにかく何もなかったということも、よく分かりました。一番早くに届いた支援は、おにぎりやカップラーメンなどで、しばらくはそればかり食べていたそうです。
ただ、急いで用意されたもののため、半分生米というおにぎりもありました。 そうやって食べきれないおにぎりを、雑炊に調理し直したり、また十三浜はわかめが有名で、わかめはたくさんあったため、それを洗った際に出る水で野菜の短冊切りをつけて、サラダのようにして出したりして、とても喜ばれたそうです。食べ物も、水も、非常に貴重でした。
さらに、東北グランマのプロジェクトに直結することでいえば、仕事があり、お金をもらえるということが、とても張り合いになるそうです。震災からしばらくは、さまざまな小物作りの依頼もあったそうですが、結局どうなったか分からないもの、ごく少額しか支払われないものも少なくなかったようです。
東北グランマのプロジェクトは、前述のように、ただの支援で終わらない、プロの仕事として製品作りを行っています。その分、納期や数量、品質など、厳しいレベルを求められますが、だからこそ、継続されるプロジェクトになり得るのです。
3.11大震災は大きな出来事ですが、誰も、どこでも、何が起こるかは分からない世の中です。 だからこそ、目の前のひとつひとつのことを大切にしながら、何か起きたときにそれを自分事として手をさしのべられる世の中へ、東北グランマの製品の紹介が、その一歩となれれば幸いです。