まほろば エリクサープロジェクト
良し悪しや美醜、善悪の二元性を超え、「ありのまま」「あるがまま」の自然摂理に法った超然の境地
エリクサー誕生物語
エリクサーを開発したのは自然食品店を営む店主だった
北海道は札幌に、「まほろば」という自然食品店があります。その経営者である宮下周平氏がこのエリクサーの開発者です。宮下氏は科学や技術畑とは無縁の人であり、水の知識も持っていませんでした。その宮下氏がなぜエリクサーのような不思議な浄活水器を作ることができたのか、どのように作り上げていったのかをご紹介しましょう。
- まほろばとは・・・
-
「まほろば」という屋号は、ヤマトタケルの尊(みこと)の国詠みの歌からとったものです。
「やまとは 国のまほろば たたなずく 青垣山ごもれる やまとし うるはし」。ヤマトタケルの尊が東征を果たし、苦労を重ねて故郷である大和地方の奈良に帰ってきたときに、「ああ・・・懐かしい」という感慨を込めて詠った歌であり、その中の枕ことばが、「まほろば」です。
このように、「まほろば」とは最もすばらしい地を表す古語で、また中心という意味もあります。つまり懐かしい心の故郷、我が家、地域、さらに国を、裾からも中からも作り直すことを目指す。食を通じて世の中を「心のまほろばにしたい」。そのような想いが、この屋号には込められています。
それはひとしずくの思いから
自然食品店を営んでいた宮下氏がエリクサーを作ろうと思ったきっかけは、何だったのでしょうか。
開発に着手した1995年、年々悪化の一途をたどる「地球環境」や「人々の心身と水の大切さ」を痛感する中、本当に扱いたいと思える浄水器がありませんでした。活性炭を用いた浄水機能だけでは不満足だったのです。
それならば、自分たちで作れないだろうか。水に関する知識はまったくないけれども、知識がないというのは考えようによってはプラスにもなり、物事をありのままに見る長所を持っているかもしれない、そんな想いが沸いてきたといいます。
「ゼロワンテスト」さえあれば何もいらないという確信
自然食品店「まほろば」のすべては、宮下氏が独自に開発した「0-1(ゼロワン)テスト」を判断基準にしています。「0-1テスト」とは、いわば「まほろば」の羅針盤。1983年の創業以来、「生命力」をキーワードにして、「0-1テスト」を行い、商品を選んだり、作ったりしてきました。
宮下氏は、浄水器に関する知識はまったくなくとも、「これまでの経験と0-1テストを集大成して、創造的にこれらを活用すれば、きっと何でもできるはずだ」という確信と自信だけはあったと言います。
「人まねをせずに自分で一からやってみよう」。ここから、まほろばのエリクサー作りはスタートしたのです。
- 0-1テストとは・・・
-
【前身は筋力検査法】
まほろばの指針となっている「0-1テスト」は、アプライド・キネシオロジー(応用運動機能学)や オ-リングテスト( Bi-Digital O Ring Test )などの筋力検査法を前身としています。
アプライド・キネシオロジーは、アメリカのカイロプラクティックドクターであるジョージ・グッドハート博士により、また、オ-リングテストはニューヨークの心臓病研究所長・大村恵昭博士によって 1970 年頃、医学的診断治療のためのメソッドとして確立されました。
いずれも、人の脳神経系と筋肉反射はダイレクトに連動しており、体内情報を腕や指の筋肉反射によって感知できるという原理に基づいています。 -
【医学分野で使われてきたメソッドをあらゆる面で応用発展し利用する】
もともと医学分野だけに限られて使われていたこれらのメソッドを、まほろばでは食品の良し悪し(添加物や残留農薬の有無、栄養バランス等)の判断、独自の商品開発(浄活水器、化粧品、サプリメント、調味料等)や、直営有機農場の農業栽培技術、店舗の場所選びや設計、食生活相談等、ありとあらゆる方面で独自に応用発展させてきました。 -
【0-1テストは一人でできる】
また、アプライドもオ-リングテストも治験者と被験者、ないしは協力者の直接法・間接法により、電磁波の影響を受けない環境条件のもとで行います。0-1テストは、それを「一人で」「どこで」でも、より簡便、スピーディ、正確に行えるよう実用的なものに改善し、「0-1テスト(ゼロワンテスト)」という名称で商標登録をとりました。(商標登録願 登録 4818506 号 商標 2003-077301 ) -
【0-1テスト方法】
筋肉反射は弛緩と緊張という相反する生理的反応によって、私たちに、「イエス」 or 「ノー」という是々非々のメッセージを送り届けてくれています。一人でできる0-1テストは、親指と人差し指の先端をスライドさせて、ロックするか否かを微妙に感じとるものです。
敏感な感性と生理的バランスの調整、それに利害損得や先入観、固定観念等に捉われない純粋な真理に対する探究心さえあれば、人は生命体の発するサインを容易に感じとることができます。 質問のセッティングや絞り込みの仕方、出てきた答えをどのように判断するかというノウハウと経験の積み重ねがあれば、0-1テストはどのようなことにも応用可能なメソッドであると宮下氏は言います。
最初に抱いた、「母なる水」=母水・MOTHER WATER というイメージ
宮下氏が目指す水について、最初に抱いたイメージは、「母なる水(母水・MOTHER WATER)」でした。すべての元となる水・・・すべてを生み出し、育み、癒し、復元させる母なる水のイメージとエナジーです。
自然に素材が集まってくる 「為さずして成る」という原理
「一点から生まれ、また一点に還る」という大宇宙の原理にしたがうと、一点から無限大に遠心力であらゆるものが生育され拡散していったのであるから、何もすべてを知る必要はない。その一点に精神を統一すれば為さずしてすべてが元来のところに戻ってくる・・・。
つまり、老子の言う、「為さずして成る」ということです。このような想念を強く持ち続けた宮下氏の元に、自然とすばらしい材料が集まりはじめました。時間的にいえば、一瞬と言えるほど短期間のうちに、最終的には、700種類もの動物、植物、鉱物が集まってきたのです。
そしてそれらはどれも、世界的・宇宙的規模で原初的な生命情報・自然情報を天然無垢な形で内包したものばかりでした。
0-1テストを何日にもわたって延々と繰り返す
これほどの巨大な時空のスケールを持った素材たちを、バランスよく新しい生命体として一つに統合できるのは0-1テストしかないと思った宮下氏は、それからというもの、奥様とともに二人で部屋に閉じこもり、集まった素材の質と量のバランスや組み合わせ方を決めるため、何日にもわたって延々と0-1テストを繰り返しました。
そしてその間に、いろいろな工夫や思いつきも自然と浮かんできたそうです。
「セラミックは自分で焼くしかない」という結論に
集まってきたすばらしい素材の数々を結晶化させるのに、さてどうするか。悩んだ挙句、選んだ方法は「自らセラミックを焼く」というものでした。その理由は、以下の2つでした。
- 本来、セラミックは、専門工場で焼いてもらうしかありません。しかし、0-1テストをしながらでないと、どう焼いてほしいかを正確に依頼することができない。何より、こんなに多くの素材を持ち込んでも焼いてくれるところはないだろう。
- 重金属の釉薬(ゆうやく:陶磁器などを製作する際、粘土等を成形した器の表面にかける薬品)を用いた他の焼き物の波動が混ざることが耐えられなかった。
複雑な0-1テスト管理で、真理のままにセラミックを焼き続ける日々
自分で焼くことを決め、コンピューター制御の最新式電気炉を購入したものの、結果的にはその装置を無駄にしてしまいました。0-1テストをしながら焼いてみると、季節や外気温、原材料の一寸した違いで、焼くたびに操作が異なってくるのです。
真理は常に具体的で変化するということを宮下氏は心底から感じました。一度窯に火を入れると七日七晩、寝ずに火の番をして、かつ0-1テストによる複雑な管理をする必要がある。とても誰かに頼めるような代物ではなかったのです。
安定した同じセラミックを焼くためには
セラミックを焼くたびごとに動く特異温度の見極めは、0-1テスト以外に頼れるものはありませんでした。特に最終日、最高温度に達したときの火を止めるタイミングは実に絶妙です。数秒遅れるだけでセラミックが溶けて岩盤になってしまうのです。
0-1テストでは、多孔質を保ちながら磁性体(※1)に変化し、しかも強度のある絶妙ポイントを要求していました。ひとつひとつのセラミックがその個性を維持しながら一触即発の最小エネルギーで、全体として一つになる(岩盤になる)情報を内蔵している。その状態が生命を一番活性化させる特異点(※2)なのだと0-1テストは教えてくれました。
※1…磁場の中で磁化される物質。すべての物質は多かれ少なかれ磁化される。
※2…ある基準の下、その基準が適用できない点。
部分と全体における絶妙なバランス
真理は生きていて、何時も変化をしており、この変化の原理を読まずして安定した同じセラミックを焼くことはできないということも0-1テストは教えてくれました。
このことは、部分と全体における絶妙なバランスの理想形を物語っているのではないか、という気づきへと連鎖していきました。宮下氏は、この絶妙な接点が、科学という枠を超えた哲学の世界、仏教的には「即一」の境地であり、尊敬し師事してきた数学者の岡潔先生が説かれた「情緒」という心境ではないかとさえ思ったそうです。
エリクサーという名が意味するもの
エリクサーという言葉には、「霊丹」「霊薬」「霊水」などの意味があります。宮下氏はこの「エリクサー」という言葉の神秘主義的な響きに大いに惹かれて名前をつけました。
その後、薬草学・博物学の権威、日本薬科大学名誉教授の大槻真一郎先生は、宮下氏に「エリクサーとは、錬金術においても最も重要な秘薬とされ、物質的世界と魂の調和をもたらす試薬であり、また卑金属を貴金属に変える錬金石(賢者の石)、または不老長寿の霊薬である」と教えてくださったそうです。
本来の錬金術とは、この世界の調和を探求し、それによって魂の調和を得ることを目的としたものだったのです。
これは自分が作ったのではなく、作らされたのだという感情
「エリクサー」という言葉が持つ深い意味は、まさに、自分が浄水器エリクサーに込めた願いそのものだったと、名づけた後になってはっきり気づいた宮下氏。大変驚くとともに崇高な想いに打たれて、「これは自分が作ったのではなく、作らされたのだ!」という感情が沸き上がってきたと言います。
エリクサーは、時代性が突き動かす、あるいは必要とした何者かである。まさに、現世と目に見えない世界を繋ぐもの、それがエリクサーという水の柱であり、橋ではないだろうか。祈りによって大いなる存在と繋がるように、繋げてくれる何かがある。その意味ではエリクサーは生き物であり、ある意思をもった存在なのです。
- 太古のパワフルな力を水に還したい まほろば店主 宮下周平
-
【水自身が主張を持って語りかける】
出来上がったばかりのエリクサーから出る一杯の水。何か生まれ変わるような厳粛な清涼感と、あらゆる束縛を解き放つような無限の広がり。 五臓六腑の隅々にまで染み渡るような浸透感。しかも、くっきりとした輪郭を画いて融合している。「これほど水自身が主張をもって語り掛けてくるとは!」。それは、これまでどんな天然の湧水・井戸水や山泉でも味わえなかったものだった。それほど、この浄活水器に込められた想いとその素材は誰もが想像を絶するほどのものであった。この水を単なる浄化水とするのではなく、世界の原初的な働きを持つ、もっと力のある、いわば物事を創造し、発現しうるほどのエネルギーでありたいと願った。
-
【水が変わればれば、全てが変わる】
東洋易思想では、五行の最初に北の一の定位に水があり、万物はここから胎動して全てが次第に生み出される。それほど太初の水は今日想像しえないほどのパワフルなものだった。いわば、そのような力の水に帰したかった。水が変われば、全てが変わるといわれている。地球も人体も7割ほどが水で覆われている。何事も水の影響が大きいのは当然とはいえ、この事実は意外と無知の闇に葬り去られている。水をあえてエリクサーと名づけたのは源に還元するとの意味でもあるのだ。まほろば「エリクサー」はまさに「地球の原水」に還ろうとしている。
開発者 宮下周平氏がエリクサー作りにたどり着くまで
なぜ、エリクサーのような不思議な浄活水器を作ることができたかを考えたとき、「情緒」と「独創」と「0-1テスト」とが三位一体になったからこそ完成できたのだろうと宮下氏は言います。宮下氏の「情緒」と「独創」という「心の経緯」も、エリクサー作りの大変重要な要素だったのです。
1.情緒
数学者の岡潔(おか・きよし)先生から学んだこと
- 知性と感情は深いところで一致しているという驚き
-
宮下氏は青春時代、岡潔先生の講演に足しげく通ったり、お宅に伺ったり、会を作って仲間を集め、岡先生の馨咳に接したり・・・。これらの経験は生涯における心の宝となったと振り返ります。
宮下氏は、高校生の時に『人間の建設』という対談本を読んで、岡先生のことを知ります。その本には、「日本の心」の核心に迫る内容が書かれていました。
「心」を突き詰めるとそれは「情緒」である。では「情緒」とは何か・・・結論で、それは「懐かしさ」であると書かれている。岡先生は「数学というものは情緒なしでは成りえない」とさえ断言されるのです。
数学の専門家が情緒などを語られるあたり、「知性と感情は深いところで一致している」ことに驚くと共に、強く惹かれるところがあったのだそうです。 - 「三昧」と「即一」の境地を知る
-
岡先生は二十世紀の間、世界中の数学者が挑んでも超えることができなかった「多変数解析関数論」という難問にたった一人で挑み、とうとう制覇します。それは、岡先生の恐るべき集中力が可能にしたのですが、それ以上に、仏道修行で得た「三昧」の精神集中が、その不可能を可能にしてしまったと言われています。
「三昧」とは、深い精神統一のことですが、「三昧」の極みにいたると、自然は心の外にあるという認識がガラっと反転して心の中に自然が見えてくると言われています。数学と仏教はまったく関係のないように思えますが、現代物理学の最先端である「量子力学」では東洋哲学、ことに仏教哲学の宇宙観と数学は明らかに一致したという驚くべき話もあるほどです。岡先生も、「仏教哲理と数学はまったく矛盾がない」と言い放ちます。
宗教的手段は別として、宇宙の根底と一体になってしまえば、そのものになってそのものを観るという境地に至るのです。
中国の楽器、古琴との出会い
- 古代の音曲から学んだこと
-
古琴(※)を初めて紹介してくれたのも岡先生だったそうです。そして、宮下氏は20歳のころ、たまたま東洋音楽研究家として中国から東大大学院に留学されていた故・張世彬先生の最初の弟子としてこの楽器を習い、昭和の再興を志しました。
古琴は非常に歴史が古く、中国の古代思想を音で伝えるために使われた深い哲学をもった楽器です。その頃、日本では誰も奏する人がいなかったので、宮下氏はすこぶる興味を抱いてその門をたたいたと言います。
音は耳により波長として捉え、水は目により波として波長を捉えます。そして万物・宇宙すべてが固有の波長で成り立っており、自然の目に見えない波動と一体になることを目指す古代の音曲から学んだことは大変貴重な経験だったそうです。※古琴(七弦琴)は平安時代と江戸時代の2回、日本に渡来してきましたが、普及することなく途絶えてしまいました。2003年11月6日にユネスコの世界無形文化遺産に指定されました。
- 礼楽から道へ
-
古曲「幽蘭」は、孔子が作曲したといわれる伝説の調べで、岡先生はこの曲を古今東西絶無の音楽と感嘆されたそうです。音楽指向の宮下氏はどうしてもそれを習いたいと躊躇なく習い始め、この曲を習得したときには何か孔子の心に触れたという喜びの感情が溢れてきたと言います。
その孔子は「礼楽の道」というものを説きました。楽しみと規律(礼)が一体となって道が開けるという教えです。宮下氏は楽を形の上で学んでも、その対の礼を知らなければ楽もわからないと思うようになります。
礼とは何か。孔子は道(タオ)であると説いています。そのタオをどうやって求めていけばいいのかを真剣に考えた末、今までの古琴の活動を突如として止めてしまい、この道を求め始めました。それが宮下氏の長きにわたる求道の第一歩だったのです。
2.独創
武満徹氏の音楽にふれて
高校生のとき、もう一つの出会いがあったそうです。作曲家の武満徹(たけみつ・とおる)氏です。ある日何気なくラジオから流れてくるピアノ曲を聴いて、何故か咄嗟に「自分の求めていた音はこれだ!」と直感。その曲が、当時さほど有名ではなかった武満徹氏のピアノ曲だったのです。
アカデミックな音楽教育を受けたことがなかった武満氏は、自分の中に沸いてくる音を刻むように音符にしていったそうです。はじめ、彼の音楽が世に出たときは、「音楽以前だ」と酷評を受けますが、それでも彼は自分の音楽を紡ぎ続けました。そして、世界のタケミツと言われるまでにのぼりつめたのです。
宮下氏が武満徹氏から学んだことは、「無からの出発」。何もないところから何かを見出し生み出していく。本当の意味での「独創性」を学んだのです。
情緒と独創からの求道へ エリクサーに続く道
宮下氏の人生の大きな転機は、高校生時代の修学旅行にまで遡ります。
旅行先の奈良で、薬師寺の境内に入ったとたん、不思議な懐かしさの感覚を強烈に受けたと言います。それがまさに情緒の核心である「懐かしさ」だったのでしょう。宮下氏は、「すぐに人生をそこから始めたい、考えてみたい」と思い立ち、進学せずに高校を卒業するや否や、薬師寺に入って修行を始め、それだけにとどまることなく、さらに15年間、転々と放浪や求道の日々を送ることになります。
- 「地球の元気は、たったひとりのあなたの元気からはじまります」 まほろば店主 宮下周平
-
人体の60%を占めるといわれる水。
その水をエリクサーに変えることであなたが元気になるならば、それは地球に対して最大限の貢献をすることになります。
なぜならば、水や空気、食物循環を通じて、私たちすべての生命はひとつにつながっているからです。ジェームズ・ラブロックがガイア伝説で説くように、私たちは地球という生命体に宿るちっぽけな微生物かもしれません。
それは、地球の生態系を通じて私たちみながひとつにつながっているということでもあるのです。
もし、それが事実であるのなら、地球の平和は、たったひとりのあなたから始まります。ひとりでも不幸せな人がいる限り、地球に平和が訪れることはないのです。逆に、あなたが幸せなとき、その喜びは地球という生命体全体に駆け巡ります。あなたの幸せは地球の幸せに直結しているのです。
まずは、あなたというミクロの地球の海を綺麗にすることから始めてみませんか。それはあなたの体に心地よさをもたらすと同時に、地球全体にイノチの歓びを広げることでもあるのですから。
そして、それこそが私共まほろばの切なる願いでもあるのです。