国産五本指靴下 杉山ニット代表・杉山浩之氏インタビュー
「もう絶対的に喜んでいただける商品をいかに作るか」を神髄とされている、杉山浩之さんにインタビューしてきました
衰退の一途を辿っていた日本の靴下業界、
直径8cmの脳腫瘍、合計45時間に及ぶ大手術・・・
大変なこともたくさんありましたが、
毎日感謝の心を忘れずにはいられません。
昔、ある展示会で数多くの靴下メーカーが出展する中
「これが本物や!」って見つけてくれた、
それが中川社長との出会いなんですよ。
あれからもう20年くらい経つのでしょうか。
気がつけば随分長いお付き合いになりましたね
日本の靴下をもう一度復活させたい、その思いが繋ぐ今
何か目に見えない存在が、もしかしたら私たちをサポートしてくれているのではないか!と思うときがあります。宝くじに当たったとき、一瞬の違いで事故から救われたとき、自分の力以上のパワーを発揮したとき・・・。杉山ニット工業の代表である杉山浩之さんにもそんな経験があるといいます。
異業種から靴下業界へ、決して平坦ではなかったここまでの道のり
――34歳の時に、杉山ニット工業を継がれたとうかがいました。それまでも、靴下業界にいらっしゃったのですか。
「いえ、実は元々、製薬会社に勤務するサラリーマンでした。靴下産業とはまったく違う業界ですよね。縁があって平成3年に妻の富子と結婚して杉山ニット工業の娘婿になったわけですが、当時はまさか自分が工場を継ぐことになるとは考えていませんでした。でも不思議なもので、当時勤めていた製薬会社での開発部、学術、営業と3つの部門での経験が後にとても役立ちました。製造現場での苦労や、学術で薬の申請データを作成するときに覚えたパソコン操作や営業など、すべてがそのまま杉山ニット工業での仕事に生かされている、というわけです」
――継ぐことになるとは考えていなかった、のお言葉は正直意外です。
「いや~、本当に考えていなかったですね。ただ、当時靴下業界はとても大変な時期に差し掛かっていました。靴下の輸入率が増え始め、国内の靴下産業が衰退していくようになったのです。平成7年に21.1%だった輸入浸透率が、平成16年には62.8%とあっという間に増え、大手下請け会社は次々と倒産や工場閉鎖に追い込まれていきました。当然、弊社も例外ではありません。その頃、私はまだサラリーマンとして働いていたわけですが、義父の大変な姿を見てマーケットの開拓に協力せざるを得ませんでした」
――お話をお聞きしているだけでも、大変な状況ですね・・・
「当時は大変でしたね。そんな中、ある日義父が『EM』に着目し、これを靴下に使えないだろうかと言いだしたのです。私はEMという言葉すら初めて聞きましたから、もう本当にチンプンカンプンで(笑)。最初はまったく興味もありませんでした。ですから、義父に福井県・鯖江で開催されるEMの研究大会にも誘われたときも、参加するつもりはまったくなかったのですが・・・研究大会のほんの1週間前に会社の出張で突然金沢に行かなければならなくなりまして、せっかく北陸に行くのだからと家族に説得されて、参加せざるを得なくなったのです。今思えば、これがEMに関わる人生のはじまりですね。後に、このEMが杉山ニット工業の救世主となるわけですから、人生は不思議です」
――EMと出会ってからは順風満帆だったのですか。
「いえ、まったくそんなことはありません。国内の靴下業界は、先ほど申したとおり衰退の一途を辿っていました。弊社も風前の灯火状態で・・。靴下製造会社の8~9割は下請け孫請けでしょう。弊社も当時はそうでした。大手から依頼があり、1年分の製造依頼書が渡されます。でも、そのうち引き取られるのは3~4割ということも多く、7~8割売れたら良しという状況でした。倉庫にはいつも商品が山積みされていました。そんな状況を打破するため、断腸の思いで大手との取引中止を決断しました。ですから、もうコツコツ少しずつでも販売するしかなかったのです」
――すごい決断ですね。
「はい、今振り返ってもそう思います。でも、そうこうしているうちに義父がEM-Xを靴下に応用することに成功、そして、ありがたいことにとることが非常に難しいとされていたEMの認定マークも取得することができました。しかも、その認定マーク取得の朗報を富山へ向かう電車の中、以前EMの研究大会があった鯖江の駅をちょうど通過するところで聞いたものですから、なぜかとても強く『自分は、製薬会社よりも杉山ニット工業に強く必要とされている』と感じるようになりました。それをきっかけに、12年のサラリーマン生活に終止符を打ち、杉山ニット工業での靴下作りに全力を傾けようと決意を固めました」
――鯖江の駅での朗報、運命的なものを感じますね。
「あれで迷いがなくなり、決意も固まりました。それからですね、義父と妻、そして私の3人で力をあわせる日々が始まりました。一軒一軒電話をして、興味を持っていただいたらサンプルを送って・・と、地道な営業を続ける毎日でしたが、ここでそれまでの経験がすべて生きたわけです。やがて、EM-Xの靴下が珍しいということ、また靴下の質については自負していますので、自然食品店やフットマッサージ店、個人のお客様の間でも口込みでリピートが増えマーケットに定着していくようになりました。最初は10アイテムほどでしたが、お客様のご要望に応えるうちに今では100以上のアイテムが作れるようになりました。奈良県の小さな会社が世の中に認められるようになったのです。EM-Xは、まさに杉山ニット工業の救世主となりました」
――EM-Xは“救世主”、まさにその言葉が似合いますね。
「本当にその通りです。EM-Xとの出会いが、弊社の運命を変えました。しかし、時期を同じくして、私が直径約8cmの脳腫瘍を患っていることが発覚したのです。脳の手術といえば最も困難を極めますし、成功の望みも高くありませんでした。ですから、自分でもできるだけ身体に良いことをしようと思い、EM-Xを毎日妻に持ってきてもらって飲み続けました。また、いいお医者さんにも恵まれまして・・・主治医は土日祝日など例外なく毎日病室に来てくれました。3ヶ月の入院中、いらっしゃらなかったのは元旦と2日だけでした。本当にありがたかったですね。当時は実父も健在で、みんなで心配してくれました。うちの親は信心深い人たちでしたから、神仏のご加護もあったと思います。自分でも助かったことが不思議なくらいの大手術でした。1回目は手術時間が24時間に及び、輸血量も6リットル。それでも腫瘍が摘出されたのは3分の1でした。そして、2回目の手術。絶対に治したいという主治医の先生、家族、私の思いと、それ以上に働いた何か不思議な力が奇跡を起こしました。21時間の手術と2リットルの輸血で、腫瘍がすべて摘出されたのです」
――合計45時間に及ぶ脳腫瘍の摘出手術、成功にはたくさんの想いと力が働いたのですね。
「はい、それからは目に見えない力をすごく感じるようになりました。何より、毎日感謝の心を忘れずにはいられません。元々、サラリーマン時代に勤めていた製薬会社が道徳を重んじていたこともあり、モラロジーの研修にも何度も参加していました。人間は支え合っていきていくということ、だからこそ社会に貢献していきたいという気持ちを人一倍持っていました。その気持ちが日本の靴下産業に貢献したい、日本の靴下をもう一度復活させたいという気持ちに繋がったと思います」
――日本の靴下をもう一度復活させたい、その強い思いが時を経て今に繋がるのですね。
「そういう思いを持って仕事をしていると、不思議と同じ思いを持つ人との出会いが多くなりました。お取引先様だけではなく、お客様も同じです。例えば、儲けようとばかり思って仕事をしていると、お客様からのクレームが多くなるんです。不思議とお客様も同じような思いの人がつくようになります。でも、お客様に喜んでほしいという一心で、儲けよりも誠意を優先していると不思議とお客様にも感謝されるようになるんですね。おかげさまで、今はとても良いご縁に恵まれています。本当に感謝しています。そして、少しずつ軌道に乗り始めた頃でしょうか。ある展示会で数多くの靴下メーカーが出展する中「これが本物や!」ってうちの靴下を見つけてくれた人、それが中川社長でした。
――「これが本物や!」と思わず近づいてしまう、特別な何かがあったのでしょうね。
「そうだと嬉しいですね。それからここ奈良にもお越しいただいて、お取引が始まって、あっという間にもう20年くらい経つんでしょうか。気がつけば随分長いお付き合いになりましたね。」
――20年というと、それこそ弊社が創業して間もない頃からですね。いつも変わらず、素晴らしい商品を作っていただき、スタッフ一同感謝しています。
「ありがとうございます。これからも「もう絶対的に喜んでいただける商品をいかに作るか」という、うちの神髄とともに、リピートしたいと思っていただける靴下作りに励んでまいります。」
――私たちも、杉山ニットさんの靴下の魅力をお伝えできるよう努めてまいります。本日はお忙しい中、本当にありがとうございました。