ぷるんぷあんの歴史
歴史と設立趣旨
ぷるんぷあんの歴史
トレテスの歴史と設立趣旨
中川智子さんと故・石井正治さん。
こんにゃく芋はこんなに大きいんです!
「ぷるんぷあん」はインドネシア東部ジャワ島にあるトレテス高原に自生している“ムカゴこんにゃく芋”が主原料。しかしインドネシアは原産地でありながら、日本のようにこんにゃくを食べる習慣がないというのです。
ならばどうにかして日本の食卓にと、幾多にも及ぶ研究の末に生まれたのが、乾燥糸こんにゃく「ぷるんぷあん」。
そこにはいくつかの「物語」がありました。
ここでは、「ぷるんぷあん」を販売する有限会社トレテス設立者の中川智子さんが、「ぷるんぷあん」が生まれるまでの道のりと、トレテスの歴史を語ります。
「ぷるんぷあん」の生みの親-石井正治さんの存在-
石井さんという人
この乾燥糸こんにゃく「ぷるんぷあん」は、第二次世界大戦で近衛騎兵として従軍した石井正治さん(故人)が、インドネシアで敗戦を迎えた折、部下を引き揚げ船に乗せるために、自らが人質となり、戦後残留元日本兵として彼がこの地に生きてきた証となるものです。残留兵は日本からも見捨てられ、異国での人生は言語に絶する苦労であったとのことです。地を這うような生活の中で、石井さんはサンダル工場やスリッパ製造の事業を興し、その成功によって財を成しましたが、その私財をふたつの“夢”に投入しました。
叶えたかったふたつの夢
収穫されたこんにゃく芋
ひとつは、日本兵でありながら1947年のオランダとの独立戦争でインドネシア兵として前戦に送られ、無念のうちに戦死した300人余の日本人の遺骨を収集し、スラバヤに「日本人墓地」を建立することでした。石井さんはひとりで歩き、遺骨を集め、スラバヤに立派な「日本人墓地」を作りました。そのことで日本政府から叙勲されました。それと同時に、インドネシアの残留日本兵の中で経済的に困窮している人々への援助を続けました。
もうひとつの夢は、インドネシアと日本の架け橋になるものを作りたいという願いでした。インドネシア人として生きつつ、やはり望郷への想いは強く、貧しいインドネシアの農民達の経済的な自立につながり、また故郷日本の人々が喜んでくれるものを探しました。それが“ムカゴこんにゃく芋”で作った乾燥糸こんにゃくでした。こんにゃく芋の中で最高の品質を持つ“ムカゴこんにゃく芋”は日本では育ちません。また、その芋でなければ、乾燥のものは作れないのです。しかも、インドネシアはこんにゃくを食べる習慣がなく、こんにゃく芋は標高500メートル以上の高地でたくさん自生しているのに雑草扱いをされており、文字通り「宝の山」は放置されていました。
石井さんは、寒村の農民の自立への道として、芋の収穫方法やスライスして乾かす方法、栽培技術の指導を行いました。世界でたったひとつしかない物を、そして日本のこんにゃく業者と競合しない製品を作るのだという一念で、20年近い歳月をかけて開発されたのが、この「ぷるんぷあん」です。
私たちは、「ぷるんぷあん」を買ってくださる方々に、戦争がいかに理不尽で無為なものか、二度と戦争はしてはならないという石井さんの想いを伝えていきたいと思っています。
石井さんとの出会い-日本とインドネシアの架け橋に-
父が与えてくれた、運命の出会い
石井さんと父。日本にて。
石井さんとの出会いはインドネシアでした。戦争中、インドネシアで通訳をしていた父と二人で旅行をしたとき、東部ジャワのスラバヤに住んでいた石井さんと父が友人であった関係で、私も初めてお会いすることができました。
戦争で人生を狂わされ、それでもなお憎しみではなく、あきらめでもなく、祖国日本とインドネシアの人々のために「架け橋になりたい」と、涙ながらに語ってくれた石井さんの姿に感動しました。
「何かお手伝いしたい」と強く思い、それは「乾燥糸コンニャクを日本で広げること、これを作り上げた石井さんの思いを添えて・・・」だと。私たちは商品をお土産にたくさんいただき、日本へ帰りました。
「トレテス」が生まれるまで
帰国後、友人たちに食べてもらった「ぷるんぷあん」はびっくりするほど好評で、「もっと食べたい」「どこで買えるの?」とさしあげたほとんどの人々が尋ねてきました。時同じくして共に旅行した父が末期癌で余命半年と宣告されました。「一緒に会社を作ろう。色々なこと教えてよ」父の生きがいにもなれば、との思いで起業することにしたのです。
高原とはまた違い、街には人が賑わいます
「トレテス」という社名はインドネシアで最初に原料の“ムカゴこんにゃく芋”が見つかった場所であり、石井さんの家があるところです。ヨーロッパ風の建物が点在し、滝があちこちにあって、ジャワ島の避暑地としてもひらけた高原の名前です。父が迷わず「トレテス」にしようと提案し、決めました。
事務所は宝塚の自宅マンション。ファックス一台分の事業資金で始めました。家で袋詰め作業をし、ビニールシートを小脇に抱えてフリーマーケットで売ったり、友人たちに買ってもらうような日々が続きました。
「こんなに少ししか売れなくて、石井さんに悪いなぁ」と思いつつ、「おいしいね!」と言われると嬉しくてたまらず、商売って面白いものだな、と思いはじめました。あまり売れなくてもワクワクするような毎日でした。
震災が教えてくれたこと
「災害はある日突然やってくる」の言葉通り販売活動を始めて4ヶ月目、阪神淡路大震災がありました。宝塚も大きな被害を受け、わが家もテレビは吹っ飛び、食器もほとんど割れて、タンスも本棚もバタバタ倒れてしまい、もうメチャクチャでした。
コンニャクのダンボールも無残な姿になりました。家そのものは無事、怪我もない、子どもたちは受験、夫は単身赴任で不在、宝塚の全壊世帯は5千戸を超えて大変なことになっている。私は迷いました。「コンニャクか、ボランティアか」。今しか出来ないのはボランティアです。やらなければきっと後悔すると思い、「1.17その後の会」を作り、リサイクルした電化製品(テレビ、冷蔵庫、洗濯機など約600台)を2トントラック3台に分乗し、約6ヵ月間かけて届けてまわりました。
全国から友人たちが寝袋持参で泊まりこみ、メンバー8人は不眠不休で頑張りました。その活動資金は全国各地の友人たちが私たちの活動を口コミで伝え、「ぷるんぷあん」を買ってくれたお金でまかないました。6ヵ月後の95年8月、私はボランティア活動を終え、再び「コンニャクおばさん」に戻りました。
そして、本当の架け橋に
インドネシアの日本人墓地にて
しかし、この後がびっくりです。被災者支援で「ぷるんぷあん」を買ってくれた人々から注文がどんどんきたのです。「美味しいし便利」「石井さんのお手伝いをしたい」「生協で扱いたい」「安心な食材なので、せひ学校給食で」……本当に嬉しい話がいっぱいでした。作業所で仕事を探している、という友人の話を聞いたのも活動の最中でした。それなら袋詰めの仕事をしてもらおうと、それ以来、全国約60ヶ所の福祉作業所の人々も仲間入り。インドネシアの仕事作りと日本の福祉との架け橋も出来ました。
もうひとつ、「ぷるんぷあん」の売り上げの一部はこれからもずっと被災地支援としてカンパすることを決めました。三宅島の火山噴火、インドネシアの地震津波、中越地震にカンパの輪が広がっています。
震災の翌年3月に私の父は他界しました。入院している時、インドネシアから石井さんがお見舞いにかけつけてくれました。しっかりと手を握り合い、互いに涙を浮かべてうなずきあっていた姿は忘れられません。その石井さんも2002年天に召されました。84歳でした。
私たちにできること-みんなの心を笑顔に!-
たくさんの人たちとつながって
私たちは農場や工場で働くインドネシアの女性たちの笑顔を思いつつ「ぷるんぷあん」を売っています。「ぷるんぷあん」とは、インドネシア語で「女性」という意味です。
貧しくても弾けるような笑顔を大切に仕事をしているインドネシアの人々、作業所で懸命に袋詰めをしてくれている人々、被災地への祈り。たくさんの人々との出会いと努力が生み出した「ぷるんぷあん」を私たちはこれからも大切に大切に、皆様のもとに届けたいと願っています。
ふたつの故郷への貢献
「私が交渉に乗り込んだが、結局、人質となり両わきから銃を突き付けられ、そのまま海岸から引き揚げ船が出ていくのを見送ったんです。」…(石井正治著『南から』)
第二次世界大戦、敗戦。
日本陸軍の近衛混成旅団騎兵中隊付き経理官として、中国からインドシナ・インドネシアへと渡った石井正治氏は、スマトラ島で無念の終戦を迎えました。
すぐに日本軍は、インドネシアからの引き上げを開始しましたが、インドネシア人、日本人双方の間で、相手が襲ってくるのではないかといった流言飛語が飛び交い、石井氏を含む残留日本兵を取り巻く状況は一触即発の極めて危険なものでした。
そんな中、日本兵が混乱なく撤去できるよう一人で民衆との交渉に向かい、その結果、人質としてそのまま一年間の独房生活を強いられることになった石井氏。その後は歴史の渦に巻き込まれるがごとく、インドネシア国内で独立気運が高まる中、インドネシア軍の兵士としてインドネシア独立戦争でオランダ軍を相手に戦いました。
石井氏が興したダイマツグループの工場
それから半世紀以上を経て、インドネシアで6つの会社を立ち上げ、総従業員数6000人を有する企業グループの会長となった石井氏。インドネシアに対する感謝の想いは人一倍強く、祖国である日本と、愛するインドネシア国の架け橋となる仕事を最後に成し遂げたいと決意し、インドネシア産こんにゃくの輸出に最後の人生をかけることにしたのです。
葉の付け根にあるのが
ムカゴと呼ばれる珠芽
こんにゃく芋を食用にしているのは世界広しといえど、日本人のみです。インドネシアには"ムカゴこんにゃく芋"というこんにゃく作りに最も適した幻のこんにゃく芋が自生しているという情報を、当時日本でコンニャク博士と呼ばれていた御茶ノ水女子大学の大槻博士から聞かされた石井氏は、博士をインドネシアに招き、必死の思いで国中を探しまわりました。
苦労の末に見つけたこんにゃく芋を原料に、インドネシア産こんにゃくを製造し、いざ日本へ出荷すべく日本国に照会したところ・・・。国内産業を侵害するとのことで、許可が下りなかったのです。日本国民の役に立ちたいと考えた石井氏の想いは、無惨にも打ち砕かれてしまいました。
アンビコ社の乾燥こんにゃく
製造工場の様子
とはいえ、百戦錬磨の石井氏は決して諦めることはありませんでした。「それならば、国内ではできないことをやろう」と、決意を新たに、乾燥こんにゃくの製造を試みることにしたのです。
その後20年以上の研究と苦労の末、インドネシア産乾燥こんにゃくを製造するアンビコ社の会長として、日本に向けて出荷を開始しました。
故・石井正治氏。勲五等瑞宝章を胸に
地元インドネシアでは食用とされないムカゴこんにゃく芋ですが、石井氏は、自生する芋を採ってきてくれる地域の人々から高値で買い取り、製造工場での雇用を確保し、さらに外貨の獲得につなげることに成功しました。
1989年には当時の日本国通産大臣より経済協力貢献者として表彰され、1992年には勲五等瑞宝章を拝受されました。
この努力はすべて、敗残兵を受け入れてくれたインドネシアへの恩返しのため、と石井氏は信じていたのです。
石井正治氏は、2002年7月27日帰らぬ人となりましたが、インドネシア独立の英雄としてインドネシア国軍の儀仗兵に守られ、スラバヤの日本人墓地に永眠しています。
ヘンリー社長とジョハン工場長
石井氏の想いであるアンビコ社を引き継いだのは、石井氏の長男ヤント氏と、次男ヘンリー氏。ヤント氏の長男であり、石井氏の孫にあたるジョハン氏も工場長として現場を采配しています。 アンビコ社は現在、こんにゃく芋の確保の面で、中国系の法人の乱獲に頭を悩ませています。こんにゃく芋は最低でも三年は土の中で育てなければ次の代を残すことができないのですが、彼らは後先を考えることなく、現地の人々にアンビコ社よりも高い金銭を支払って、自生する芋を根こそぎ掘り起こさせているというのです。
事態は非常に深刻ですが、できるかぎり頻繁に農園に出向いて人々とのコミュニケーションをはかることで、生産者と管理者という関係を超えた人と人とのつながりを深めていくしか手だてはないと、アンビコ社の代表であるヘンリー氏は語ります。
「異国から来た敗残兵にもかかわらず、長年お世話になったインドネシアの人々に恩返しがしたい」という想いを胸に故・石井氏が設立したアンビコ社。時代がどれだけ移り変わろうとも、故人のその心はこの先もずっと人々の心に生き続けてほしいものです。
山下のアンビコ社訪問レポートは明日葉のページで紹介中♪>> |